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源氏の挙兵と平氏政権の滅亡
治承・寿永の乱
前回の平安時代はさ、都にいる平氏が平治の乱で勝って政権を握ったけど、調子に乗って反感を買い始めたなんて話で終わったよね。
はるか
Haru_You
うん、そんな中で1178年には鹿ヶ谷の陰謀という事件が起きて平清盛と後白河法皇の関係が悪化してね。
翌1179年には清盛が後白河法皇を追放して、清盛の娘婿の高倉天皇が上皇になり清盛の孫の安徳天皇が即位するんだ。
翌1179年には清盛が後白河法皇を追放して、清盛の娘婿の高倉天皇が上皇になり清盛の孫の安徳天皇が即位するんだ。
後白河法皇もいなくなったら、平氏を止められる人がいなくなっちゃうね。
はるか
Haru_You
そこで1180年に、後白河法皇の子の以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ)を発し、それに源頼政という人物が呼応して挙兵するんだ。
お、ついに源氏の登場だ。
ここから源平の戦いになるんだね。
ここから源平の戦いになるんだね。
はるか
Haru_You
ところが源頼政と以仁王はあっという間に平氏に敗れる。
やっぱ平氏のほうが強いんだね。
はるか
Haru_You
でも、この以仁王の令旨に呼応して信濃国(長野県)で木曽義仲(源義仲、頼朝のいとこ)が挙兵し、伊豆に流された源頼朝も北条氏の協力を得て平氏打倒の戦いを始めるんだ。
この先の一連の戦いをまとめて治承・寿永の乱というんだけど、各地で反平氏の兵が上がる中、1181年に平清盛は病死する。
リーダーを失った平氏政権は次第に源氏に押されていくんだ。
この先の一連の戦いをまとめて治承・寿永の乱というんだけど、各地で反平氏の兵が上がる中、1181年に平清盛は病死する。
リーダーを失った平氏政権は次第に源氏に押されていくんだ。
木曽義仲と源義経の戦い
で、源頼朝が平氏を倒すのかな。
はるか
Haru_You
いや、頼朝は富士川の戦いの後は鎌倉に引きこもって、平氏の打倒には関わらないんだ。
都にいた平氏を倒すのは木曽義仲だね。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)では牛の角に火のついたたいまつをつけ、山を駆け下り平氏の陣中に突撃させるという戦法で数倍の兵力をもつ平氏軍を破り、平氏を京都から西国に追放するんだ。
都にいた平氏を倒すのは木曽義仲だね。
倶利伽羅峠(くりからとうげ)では牛の角に火のついたたいまつをつけ、山を駆け下り平氏の陣中に突撃させるという戦法で数倍の兵力をもつ平氏軍を破り、平氏を京都から西国に追放するんだ。
じゃあ、義仲がヒーローになって幕府を開いてもよかったんじゃない?
はるか
Haru_You
ところが義仲軍は京都で暴れて略奪したり、評判が悪くて後白河法皇と関係が良くなかったんだ。
さらに平氏軍が西から反撃を開始してピンチになったときに、鎌倉から頼朝の弟、源義経と源範頼が攻めてきて義仲は挟み撃ちになって敗死しちゃう。
さらに平氏軍が西から反撃を開始してピンチになったときに、鎌倉から頼朝の弟、源義経と源範頼が攻めてきて義仲は挟み撃ちになって敗死しちゃう。
源氏どうしで戦っちゃったんだね。
はるか
Haru_You
その後は源義経が平氏軍を一ノ谷の戦い→屋島の戦いで破り、1185年に壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼすんだ。
滅ぼした、とはいっても政権を握った清盛一門が滅んだだけで、平氏自体はその後も有力な武家として存続するよ。
実際、鎌倉幕府の要職に就いた北条氏は平氏の一門だしね。
滅ぼした、とはいっても政権を握った清盛一門が滅んだだけで、平氏自体はその後も有力な武家として存続するよ。
実際、鎌倉幕府の要職に就いた北条氏は平氏の一門だしね。
源義経は大活躍するから、いろいろな伝説があるよね。
はるか
Haru_You
義経は一ノ谷では「ひよどり越えの逆落とし」という崖を馬で駆け下りて平氏の陣地を急襲したり、壇ノ浦では船から船を飛び移って戦う「八艘飛び」なんて逸話があって、後白河法皇からも気に入られて一躍源氏のヒーローになったんだ。
けど・・・。
けど・・・。
鎌倉に引きこもってた頼朝に嫌われちゃうんだよね。
はるか
Haru_You
うん、義経は頼朝と対立して奥州藤原氏を頼るんだ。
藤原秀衡という人物は義経を幼い頃から育て守ってきた人だったから、保護してくれたんだけど、秀衡が死んで息子の泰衡に代替わりすると、頼朝から義経を差し出せって命令が強くなってきて。
結局藤原泰衡が義経を裏切って1189年に義経は自害、その藤原泰衡も源頼朝に滅ぼされて、治承・寿永の乱は終結だね。
藤原秀衡という人物は義経を幼い頃から育て守ってきた人だったから、保護してくれたんだけど、秀衡が死んで息子の泰衡に代替わりすると、頼朝から義経を差し出せって命令が強くなってきて。
結局藤原泰衡が義経を裏切って1189年に義経は自害、その藤原泰衡も源頼朝に滅ぼされて、治承・寿永の乱は終結だね。
義経、かわいそうだよね。
はるか
Haru_You
昔から日本人はこういう悲劇のヒーローが好きだから、義経の幼名九郎判官(くろうほうがん)から、弱者の味方をする「判官びいき」なんて言葉も生まれたね。
また、義経は逃げ延びてモンゴルに渡り、モンゴルを統一する王チンギスハンになったなんて伝説もあったりね。
また、義経は逃げ延びてモンゴルに渡り、モンゴルを統一する王チンギスハンになったなんて伝説もあったりね。
鎌倉幕府の成立
いいはこ作ろう?
Haru_You
で、最終的な勝者となったのが源頼朝だね。
義経を捕らえるために、頼朝は1185年全国に守護と地頭を任命する権利を得たんだ。
守護は国ごとの軍事・警察権を持つ役職、地頭(じとう)というのは土地の管理人で、武士が土地を所有することを朝廷に認めさせたということだ。
まあ、実際には頼朝の任命権が及んだのは東日本諸国だけで、西日本は朝廷が力を持っていたんだけどね。
義経を捕らえるために、頼朝は1185年全国に守護と地頭を任命する権利を得たんだ。
守護は国ごとの軍事・警察権を持つ役職、地頭(じとう)というのは土地の管理人で、武士が土地を所有することを朝廷に認めさせたということだ。
まあ、実際には頼朝の任命権が及んだのは東日本諸国だけで、西日本は朝廷が力を持っていたんだけどね。
とはいえ、軍事・警察と土地の支配が認められたということは政権を握ったということだよね。
はるか
Haru_You
うん、なのでこの1185年を鎌倉政権成立とするんだよ。
1192年で、「いいくに作ろう鎌倉幕府」じゃないの?
はるか
Haru_You
「幕府」ってのは「将軍の居所」という意味だから、頼朝が征夷大将軍に任命される1192年が鎌倉幕府の成立、というのは正しいんだよ。
征夷大将軍自体は武士のリーダーとしての名誉職で、将軍になったから政権が握れるわけではないからね。
征夷大将軍自体は武士のリーダーとしての名誉職で、将軍になったから政権が握れるわけではないからね。
政権を握るのが1185年、幕府の成立が1192年ってことね。
はるか
鎌倉幕府の二重支配
Haru_You
鎌倉幕府によって武士たちが地頭に任命され、全国の荘園から徴税する権利を手に入れたんだ。
でもね、これまで朝廷が任命していた国司や、貴族や寺社の持っていた荘園がなくなったわけじゃないんだ。
旧来の国司に加えて守護を配置し、荘園があるところに地頭を送り込んだんだ。
これで困るのは誰だと思う?
でもね、これまで朝廷が任命していた国司や、貴族や寺社の持っていた荘園がなくなったわけじゃないんだ。
旧来の国司に加えて守護を配置し、荘園があるところに地頭を送り込んだんだ。
これで困るのは誰だと思う?
えーと、旧来の荘園領主?
いや、別に自分の税金さえ取れれば困らないかな。
あ、そうか。税金を取られる側が困るんだ。
いや、別に自分の税金さえ取れれば困らないかな。
あ、そうか。税金を取られる側が困るんだ。
はるか
Haru_You
そうだね、困るのは荘園領主と地頭の両方に税を納めさせられる農民だ。
そんなわけで、鎌倉時代は古い朝廷・荘園支配と武家の支配が併存する公武二元支配、なんて言われ方をすることもあるね。
そんなわけで、鎌倉時代は古い朝廷・荘園支配と武家の支配が併存する公武二元支配、なんて言われ方をすることもあるね。
源氏将軍の断絶
Haru_You
征夷大将軍になった源頼朝は1199年に亡くなり、息子の源頼家が2代目将軍になるんだ。
けど、頼家は北条氏との関係が悪化して暗殺されてしまい、弟の源実朝が3代目将軍になる。
けど、頼家は北条氏との関係が悪化して暗殺されてしまい、弟の源実朝が3代目将軍になる。
北条政子にとって頼家は息子なのに暗殺しちゃうんだ。
はるか
Haru_You
幕府内の勢力争いに巻き込まれた感じだね。
源実朝は歌人として名高く「金槐和歌集」という歌集を残し、朝廷、後鳥羽上皇とも仲良く朝廷でも右大臣に出世していくんだけど、源頼家の息子、公曉に鶴岡八幡宮で暗殺されちゃうんだ。
源実朝は歌人として名高く「金槐和歌集」という歌集を残し、朝廷、後鳥羽上皇とも仲良く朝廷でも右大臣に出世していくんだけど、源頼家の息子、公曉に鶴岡八幡宮で暗殺されちゃうんだ。
公曉からしたら実朝は叔父さんだよね。
はるか
Haru_You
周りから実朝が頼家を暗殺した、父の敵だなんて言われてたという説もあるね。
わずか3代で源氏の将軍が途絶えるんだけど、鎌倉幕府はこのあとも続いていく。
わずか3代で源氏の将軍が途絶えるんだけど、鎌倉幕府はこのあとも続いていく。
将軍がいないのに幕府なの?
はるか
Haru_You
いや、将軍はいるんだ。
藤原氏の子弟を「摂家将軍」として迎えたり、6代目からは天皇の息子を「宮将軍」として迎えたんだ。とはいえこの将軍はお飾りで実権はなく、幕府の実権は北条氏が握ることになるよ。
藤原氏の子弟を「摂家将軍」として迎えたり、6代目からは天皇の息子を「宮将軍」として迎えたんだ。とはいえこの将軍はお飾りで実権はなく、幕府の実権は北条氏が握ることになるよ。
鎌倉幕府のしくみと執権政治
封建制度
鎌倉時代にはまだ荘園もあって、西日本は朝廷の勢力のほうが強かったんでしょ?
しかも源氏の将軍はいなくなっちゃうし、どうして武士たちは幕府に従ったのかな?[
しかも源氏の将軍はいなくなっちゃうし、どうして武士たちは幕府に従ったのかな?[
はるか
Haru_You
将軍に仕えた武士を御家人というんだけど、将軍と御家人との関係は「御恩と奉公」という言葉で表されるんだ。
御恩というのは将軍が戦いで手柄をたてた御家人に領地をほうびとして与えることで、その将軍の御恩に対して御家人がはたらくことが奉公なんだ。
御恩というのは将軍が戦いで手柄をたてた御家人に領地をほうびとして与えることで、その将軍の御恩に対して御家人がはたらくことが奉公なんだ。
将軍が武士を完全に支配しているんじゃなくて、地頭にしてあげるから味方になってよ~みたいな感じなんだ。
はるか
Haru_You
そうだね、このように土地の所有権を認めることで成立する支配を「封建制度」というんだ。
また、このしくみから「一所懸命」って言葉が生まれたんだよ。御家人は与えられた領地(所領)のために命を懸けて戦う、ということだ。
また、このしくみから「一所懸命」って言葉が生まれたんだよ。御家人は与えられた領地(所領)のために命を懸けて戦う、ということだ。
でも、鎌倉時代ってそんなにたくさん戦いがあったの?
はるか
Haru_You
古い荘園と新しい地頭の小競り合いみたいなのも多く、地方各地の武士団にも源氏や北条氏と仲が悪いものもいたし、小さな戦いは四六時中あったんだ。
だから頼朝も鎌倉という場所に拠点を置いたんだよ。
だから頼朝も鎌倉という場所に拠点を置いたんだよ。
]なんで鎌倉なの?
はるか
Haru_You
鎌倉は東西北が山に囲まれ、南は海に面した場所で、7本の細い「切通」(きりどおし)という山道でしか鎌倉に入れない、すなわち攻め込めないからすごい守りやすいんだ。
切通までは鎌倉街道という大きな道が各地と結ばれ、鎌倉を攻める敵がきたら御家人は「いざ鎌倉」といってすぐに鎌倉に駆けつけるんだよ。
切通までは鎌倉街道という大きな道が各地と結ばれ、鎌倉を攻める敵がきたら御家人は「いざ鎌倉」といってすぐに鎌倉に駆けつけるんだよ。
執権政治
将軍は飾りで、北条氏が実権を握ったって前に言ってたけど、北条氏はどういう立場だったの?
はるか
Haru_You
北条氏は執権という将軍を補佐する役職についたんだ。
初代が北条時政、その後義時・泰時と代々執権が政治を行っていたので、これを執権政治というよ。
初代が北条時政、その後義時・泰時と代々執権が政治を行っていたので、これを執権政治というよ。
執権が政治の全てを行っていたの?
はるか
Haru_You
いや、執権の下には軍事を司る侍所、財政を司る政所(まんどころ)、裁判を行う問注所が設置され、北条氏と有力豪族の会議で政治が行われていたんだよ。。
承久の乱と御成敗式目
承久の乱
Haru_You
鎌倉で執権政治が確立したころ、すなわち三代将軍源実朝の死後の1221年に朝廷の後鳥羽上皇は執権北条義時追討の命令を下し、戦うんだ。
この戦いが承久の乱だね。
この戦いが承久の乱だね。
なんで?義時はなんか悪いことしたの?
はるか
Haru_You
朝廷からしてみたら頼朝は武士のリーダーで平氏政権を倒した功労者だから将軍として政治の実権を持たせてもいいんだろうけど、北条氏が実権を握るのはおかしいと考えたわけだね。
また、後鳥羽上皇は平氏滅亡直前に天皇になったため、天皇の証である「三種の神器」を持たないままに天皇となったので周囲の評価が低く、強いリーダーシップを見せたかったらしいんだ。
また、後鳥羽上皇は平氏滅亡直前に天皇になったため、天皇の証である「三種の神器」を持たないままに天皇となったので周囲の評価が低く、強いリーダーシップを見せたかったらしいんだ。
その命令を受けて武士たちはどうしたのかな。
将軍を任命するのは朝廷だし、朝廷の命令のほうが強そうだよね。
将軍を任命するのは朝廷だし、朝廷の命令のほうが強そうだよね。
はるか
Haru_You
みんなそう思った。
守護地頭任命権を取りあげれば幕府に従う者なんていやしないだろうってね。
ところが、ここで頼朝の妻で尼将軍とよばれた北条政子が動揺する武士たちに演説するんだ。
「おまえたちは頼朝様の御恩を忘れたのか?」って。
その演説で武士たちは幕府側につくことを決め、戦いになったけど朝廷側はあっさり負ける。
歴史上、朝廷と実際に戦って勝った武士は北条義時だけなんだよ。
守護地頭任命権を取りあげれば幕府に従う者なんていやしないだろうってね。
ところが、ここで頼朝の妻で尼将軍とよばれた北条政子が動揺する武士たちに演説するんだ。
「おまえたちは頼朝様の御恩を忘れたのか?」って。
その演説で武士たちは幕府側につくことを決め、戦いになったけど朝廷側はあっさり負ける。
歴史上、朝廷と実際に戦って勝った武士は北条義時だけなんだよ。
負けた朝廷は滅ぼされ・・・はしないよね。
今も続いているんだから。
今も続いているんだから。
はるか
Haru_You
そうだね、さすがに死刑にするわけにもいかないので後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま)に島流しになり、当時の天皇や多くの皇族も各地に追放されたんだ。
また、これまで西日本は朝廷の勢力が強く地頭の任命もできていなかったんだけど、朝廷に味方した貴族・武士の荘園を没収することで幕府の支配権を西日本にも確立することになったんだ。
また、これまで西日本は朝廷の勢力が強く地頭の任命もできていなかったんだけど、朝廷に味方した貴族・武士の荘園を没収することで幕府の支配権を西日本にも確立することになったんだ。
二元支配だったのが、幕府のほうが強くなっていったんだね。
はるか
Haru_You
また、承久の乱の後幕府は京都に六波羅探題という朝廷を監視する役所を置いて、朝廷や貴族が独自の武士団を持てないようにしてその力を抑えたんだよ。
御成敗(貞永)式目
承久の乱の結果、朝廷の力が弱まって、完全に武士の世の中に変わったの?
はるか
Haru_You
いや、世の中のしくみがいきなりガラッと変わるわけではないし、そもそも法律だって昔からある律令が使われているわけだからね。
そのため荘園領主と地頭はしょっちゅう争っていたみたいだよ。
そのため荘園領主と地頭はしょっちゅう争っていたみたいだよ。
古い朝廷社会と新しい武士社会が同時にあるから混乱したんだろうね。
はるか
Haru_You
そこで1232年、執権北条泰時が武士のあいだでの慣習をまとめ、裁判の基準とするために御成敗式目を制定するんだ。
当時の元号をとって貞永式目ともよばれる、日本最初の武家法だね。
当時の元号をとって貞永式目ともよばれる、日本最初の武家法だね。
武士の社会の法律を作ったんだね。
はるか
Haru_You
武士だけが得するような法律でなく、公家や寺社にも公平に作られた優れた法律だったから、御成敗式目は室町時代・戦国時代・江戸時代まで使われ続けたし、明治時代の法律にも影響を与えたといわれているよ。
あと、御成敗式目では女性が御家人となり、土地を相続することを認めていたというのがよくテストに出るね。
あと、御成敗式目では女性が御家人となり、土地を相続することを認めていたというのがよくテストに出るね。
尼将軍なんて人がいたぐらいだもんね。
はるか
モンゴルの襲来
モンゴル帝国
Haru_You
ところで、13世紀初めにはチンギス=ハンという英雄が中国の北西部、モンゴルを統一する。
モンゴル人は遊牧民族で騎馬隊の扱いがうまく、周囲の国々をどんどん征服してチンギス=ハンの息子たちはインドやヨーロッパまで到達しユーラシア大陸に大帝国を築き上げるんだ。
モンゴル人は遊牧民族で騎馬隊の扱いがうまく、周囲の国々をどんどん征服してチンギス=ハンの息子たちはインドやヨーロッパまで到達しユーラシア大陸に大帝国を築き上げるんだ。
騎馬隊だからシルク=ロードを通ってどこまでも攻めていくんだね。
はるか
Haru_You
で、孫のフビライ=ハンは中国北方の金や朝鮮の高麗(新羅のあとにできた国)を征服し、元という国を作る。
当時中国の南半分はまだ宋が支配していたけど、これも後に元に滅ぼされるね。
当時中国の南半分はまだ宋が支配していたけど、これも後に元に滅ぼされるね。
めっちゃ強いんだね、モンゴル帝国。
で、次は日本に攻めてくるんだ。
で、次は日本に攻めてくるんだ。
はるか
Haru_You
いや、さっきも言ったようにモンゴル人は騎馬民族だからわざわざ船に乗って日本まで攻めるつもりはないんだ。
フビライに仕えたイタリア人マルコ=ポーロが書いた「東方見聞録」という本で、日本を「黄金の国ジパング」と紹介したから興味はあったみたいで、「元の皇帝が日本国王の使者を招待するよ」とか「昔みたいに朝貢貿易しようよ」という手紙を6回も送ってきたんだ。
フビライに仕えたイタリア人マルコ=ポーロが書いた「東方見聞録」という本で、日本を「黄金の国ジパング」と紹介したから興味はあったみたいで、「元の皇帝が日本国王の使者を招待するよ」とか「昔みたいに朝貢貿易しようよ」という手紙を6回も送ってきたんだ。
仲良くしようとしてたんだね、対等じゃないにしても。
はるか
Haru_You
ところが、当時の8代目執権、北条時宗はモンゴルの使者をガン無視する。
それどころか、異国警固番役という九州防衛の役職を設置して戦う気満々で準備をしてるんだ。
それどころか、異国警固番役という九州防衛の役職を設置して戦う気満々で準備をしてるんだ。
文永の役
そしたらフビライも怒るよね。
はるか
Haru_You
うん、そこで1274年の文永の役、1回目の元寇になるわけだ。
元は征服した高麗とともに軍船を組織し、日本を攻めてくるんだ。
元・高麗軍は対馬に上陸、続いて長崎・博多と上陸し攻めてくる。
元は征服した高麗とともに軍船を組織し、日本を攻めてくるんだ。
元・高麗軍は対馬に上陸、続いて長崎・博多と上陸し攻めてくる。
準備してたのに上陸されちゃったんだね。
はるか
Haru_You
この文永の役に参戦した竹崎季長という御家人が、自分の活躍を描かせた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物によると、元軍は「てつはう」という火薬兵器を使い、集団で戦うのに対し、日本軍は弓を持った騎馬武者が単騎で戦う様子が見られるね。
陸の上では元のほうが強そうだよね。
はるか
Haru_You
ところが、九州や西国の武士が集まり始め日本の反撃が始まった翌日には、元の軍船が博多湾から姿を消していた。
なので攻め込まれたことが鎌倉に伝わる前に戦いは終わったんだ。
なので攻め込まれたことが鎌倉に伝わる前に戦いは終わったんだ。
なんで元軍は急に逃げちゃったの?
はるか
Haru_You
想像より武士の数が多く、船で兵力を小出しに輸送してきたんじゃ勝てないとみて撤退したらしいね。
で、その撤退の途中で暴風雨に巻き込まれたんだけど、なぜか言い伝えでは博多湾で暴風雨にあって撤退したことになってるんだ。
で、その撤退の途中で暴風雨に巻き込まれたんだけど、なぜか言い伝えでは博多湾で暴風雨にあって撤退したことになってるんだ。
すでに上陸してるならあんま暴風雨関係ないよね。
はるか
弘安の役
Haru_You
文永の役のあとでフビライはもう一度日本に使者を送ってきたんだけど、北条時宗はその使者を斬る。
当然フビライは怒って文永の役の5倍、15万の兵力で再度攻めてくるんだ。
これが1281年、弘安の役で2回目の元寇だね。
当然フビライは怒って文永の役の5倍、15万の兵力で再度攻めてくるんだ。
これが1281年、弘安の役で2回目の元寇だね。
なんか時宗が悪いやつな気がする・・・
はるか
Haru_You
時宗は元が再度攻撃してくるのに備え、博多湾岸に全長20kmに及ぶ石塁という防壁を建てていてね。
この弘安の役では元軍は対馬・壱岐を制圧した後博多湾では石塁に阻まれて上陸できず、2ヶ月ほど海上での戦いが続いたんだ。
この弘安の役では元軍は対馬・壱岐を制圧した後博多湾では石塁に阻まれて上陸できず、2ヶ月ほど海上での戦いが続いたんだ。
それだけ続くと、日本側も鎌倉から御家人が集められるよね。
はるか
Haru_You
第一陣として六波羅から6万人の武士が派遣されたなんていうね。
けど、その六波羅の武士が到着する前に博多湾を台風が襲うんだ。
けど、その六波羅の武士が到着する前に博多湾を台風が襲うんだ。
船の上に15万の兵士がいるときに台風なんか来たら大変だよね。
はるか
Haru_You
うん、一夜にして博多湾の軍船は全滅。
前回の暴風雨と合わせて、「神風」が吹いて日本が勝利したなんて言い方をされるようになったんだ。
前回の暴風雨と合わせて、「神風」が吹いて日本が勝利したなんて言い方をされるようになったんだ。
べつに神風吹かなくても勝てそうな感じだったけどね。
はるか
Haru_You
ところが、この話が拡大解釈されて「日本には神風がついてるから戦争で負けない」なんて神話になっちゃうんだよね。
この文永・弘安の役を合わせて元寇といって、北条時宗は元寇終結後すぐ34歳の若さで病死するんだ。
この文永・弘安の役を合わせて元寇といって、北条時宗は元寇終結後すぐ34歳の若さで病死するんだ。
産業の発展と永仁の徳政令
鎌倉時代の産業
Haru_You
さて、元寇の後始末を説明する前にちょっと鎌倉時代の産業について話をしていこう。
産業って言いかたをするくらいだから、単に稲をつくる農業ってだけじゃなさそうだね。
はるか
Haru_You
うん、まず鎌倉時代の農業では鉄製農具と牛馬耕、それに草木の灰をつかった肥料が普及したんだ。
いろいろ工夫して稲をたくさん取れるようにしたんだね。
はるか
Haru_You
農業技術が発展したから、西日本では稲を刈り取った田で麦をつくる二毛作が行われるようになったね。
また、各地でコウゾ(和紙の原料)、藍(染め物の材料)、エゴマ(油の原料)などの商品作物を栽培したりと、稲以外の作物もつくられるようになったよ。
また、各地でコウゾ(和紙の原料)、藍(染め物の材料)、エゴマ(油の原料)などの商品作物を栽培したりと、稲以外の作物もつくられるようになったよ。
和紙の材料なんて、作っても自分じゃ消費しないから売るわけだよね。
だから商品作物っていうのか。
だから商品作物っていうのか。
はるか
Haru_You
そうだね、その商品作物を売るために月に3回の定期市(三斎市)が開かれ、日宋貿易で輸入した宋銭が取引に使われたんだ。
大きな市があればたくさんの商品が運ばれるから、運送・卸売業者の問丸(問)が誕生する。
今でも卸売業者のことを問屋(とんや)というし、船の名前に「なんとか丸」ってつけるのは問丸が水運を担っていたのが由来だね。
大きな市があればたくさんの商品が運ばれるから、運送・卸売業者の問丸(問)が誕生する。
今でも卸売業者のことを問屋(とんや)というし、船の名前に「なんとか丸」ってつけるのは問丸が水運を担っていたのが由来だね。
奈良時代から市はあったけど、規模が大きくなって商業と呼べるものになってくるんだね。
はるか
Haru_You
商人たちは同業者組合の座をつくって活動し、酒をつくる酒屋のなかには土倉という金融業を営むものも生まれたんだ。
金融業って?
はるか
Haru_You
いまでいう質屋さんだね。
担保となるものを預かって、お金を貸してくれる。
担保をしまうのに大きな倉庫を必要としたから土倉とよばれたんだ。
担保となるものを預かって、お金を貸してくれる。
担保をしまうのに大きな倉庫を必要としたから土倉とよばれたんだ。
永仁の徳政令
酒屋、土倉からお金を借りたのはどんな人?
はるか
Haru_You
元寇に出兵した御家人たちが領地を担保にしてお金を借りたんだよ。
「手柄を立て(奉公)たら領地を与える(御恩)」システムだから、借金してでもたくさんの武器や馬を用意して、手柄を立ててこようと考えたんだね。
「手柄を立て(奉公)たら領地を与える(御恩)」システムだから、借金してでもたくさんの武器や馬を用意して、手柄を立ててこようと考えたんだね。
お給料がでたら借金返すよって感じか。
まあ、元寇には勝てたんだしいいんじゃない?
まあ、元寇には勝てたんだしいいんじゃない?
はるか
Haru_You
ところが、元寇に勝っても幕府は御家人たちに御恩、すなわち新しい土地を与えることができなかったんだ。
だから借金を返せなくなった御家人は担保にしていた領地を土倉に取られてしまった。
だから借金を返せなくなった御家人は担保にしていた領地を土倉に取られてしまった。
なんで?
はるか
Haru_You
元に勝ったとはいっても、中国にある元の土地を奪えるわけじゃないからね。
新たな土地を手に入れてないんだから、御恩として領地をあげられないんだ。
新たな土地を手に入れてないんだから、御恩として領地をあげられないんだ。
あー、そういわれれば仕方ないか。
でも、御家人は怒るよね。
命がけで戦ったうえに自分の領地もなくしちゃって。
でも、御家人は怒るよね。
命がけで戦ったうえに自分の領地もなくしちゃって。
はるか
Haru_You
そこで御家人の不満を解消するために、幕府は1297年、永仁の徳政令を発布する。
徳政令というのは借金をすべて帳消しにする、という意味で、この徳政令では土倉が担保としてとった土地を御家人に返却することも命じられたんだ。
徳政令というのは借金をすべて帳消しにする、という意味で、この徳政令では土倉が担保としてとった土地を御家人に返却することも命じられたんだ。
うーん、御家人はそれでいいかもしれないけど、これはこれで土倉も怒るし問題ある気が・・・。
はるか
Haru_You
そうだね、よけいに世の中の混乱を招く結果になってしまい、幕府の衰退を招くことになるんだ。
鎌倉文化
武士の文化
Haru_You
鎌倉時代の文化が奈良・平安と異なる特徴をもつのはわかるよね。
これまでは都の貴族が中心だったけど、鎌倉時代になると武士が中心になるのかな。
はるか
Haru_You
うん、武士と僧侶による素朴で力強く写実的な文化、というのが鎌倉文化の説明でいわれる言葉だね。
素朴とか写実的とか、具体的にはどんなの?
はるか
Haru_You
平安末期は阿弥陀堂っていう極楽をイメージしためっちゃ派手な建築が流行ったじゃん。
一方、鎌倉文化を代表するものが運慶・快慶の彫った東大寺南大門金剛力士像だね。
一方、鎌倉文化を代表するものが運慶・快慶の彫った東大寺南大門金剛力士像だね。
あー、筋肉ムキムキで怒ってる仏様だ。
たしかに、これまでの仏像とは雰囲気が違って力強いね。
たしかに、これまでの仏像とは雰囲気が違って力強いね。
はるか
Haru_You
建築でいえば、平安末期に焼け落ちて再建された東大寺南大門や、北条時宗が元寇戦没者の慰霊のために鎌倉に建立した円覚寺なんかが鎌倉文化を代表する建築だね。
阿弥陀堂みたいな派手さがないんだよね。
阿弥陀堂みたいな派手さがないんだよね。
鎌倉には、中に入れる大仏さんもいるよね。
はるか
Haru_You
高徳院阿弥陀如来像、長谷の大仏だね。
奈良の大仏と違って座禅を組んでいるのが当時の仏教の流行と関係しているのかな。
奈良の大仏と違って座禅を組んでいるのが当時の仏教の流行と関係しているのかな。
鎌倉時代の文学
Haru_You
次に文学だけど、鎌倉時代の文学作品では源平の戦いを描いた軍記物の「平家物語」が一番有名かな。
誰が書いたの?
はるか
Haru_You
信濃前司行長という人が書いた説もあるけど、作者は不明なんだ。
平家物語は書物よりも、琵琶法師による語りで広まったからね。
平家物語は書物よりも、琵琶法師による語りで広まったからね。
琵琶法師って人がいたの?
はるか
Haru_You
いや、琵琶法師は人の名前じゃなく職業名だよ。
琵琶はギターみたいな楽器で、楽器を演奏しながら、リズムに合わせて物語を語る人を琵琶法師というんだ。
あとは吉田兼好の「徒然草」と鴨長明の「方丈記」が有名で、平安時代の枕草子とならんで「三大随筆」と呼ばれるね。
琵琶はギターみたいな楽器で、楽器を演奏しながら、リズムに合わせて物語を語る人を琵琶法師というんだ。
あとは吉田兼好の「徒然草」と鴨長明の「方丈記」が有名で、平安時代の枕草子とならんで「三大随筆」と呼ばれるね。
貴族の文化だった平安時代とは雰囲気が違うね。
はるか
Haru_You
藤原定家が「新古今和歌集」を編纂したり、「小倉百人一首」を選んだりしたんだけど、文化の中心はやはり武士と僧侶に移っているね。
武家の生活
Haru_You
政権を取った後の武士階級は武家と呼ばれるようになり、貴族たちのことを公家(くげ)と呼ぶようになったんだ。
で、武家が住んでいた屋敷は武家造、というんだけど・・・。
で、武家が住んでいた屋敷は武家造、というんだけど・・・。
けど?
はるか
Haru_You
昔は武家造って教えていたけど、間仕切りがなく中庭と池のある構造は寝殿造と違いがないんだよね。
で、寝殿の代わりに書院(書斎・座敷)が建物の中心になってきていて、それが室町時代の書院造の原型とみられるんだ。
なので最近は武家造という語はあまり使われなくなったね。
で、寝殿の代わりに書院(書斎・座敷)が建物の中心になってきていて、それが室町時代の書院造の原型とみられるんだ。
なので最近は武家造という語はあまり使われなくなったね。
そういや武士団のリーダーって、都から地方に来た天皇の子孫とかだもんね。
いきなり住居の様式を変えたりしないかもね。
いきなり住居の様式を変えたりしないかもね。
はるか
Haru_You
ただ、屋敷の中では馬術や弓術の訓練ができるようにしてあったみたいで、当時の流鏑馬(やぶさめ)という馬上から弓を射る技術は今も続いているね。
武家はいつも戦いの訓練していたのかな?
はるか
Haru_You
いや、鎌倉時代中期は平和な時期だったし、武家の間でも学問への関心が高まって北条氏は「金沢文庫」という図書館を建てたりしたんだよ。
鎌倉新仏教
浄土宗と浄土真宗
鎌倉文化の中心が僧だったってことは、鎌倉時代も引き続き仏教が盛んだったんだね。
浄土信仰が広まったのかな?
浄土信仰が広まったのかな?
はるか
Haru_You
そうだね、浄土信仰は一遍(いっぺん)による「踊り念仏」の時宗や、平安時代の末期に比叡山の僧だった法然(ほうねん)の浄土宗で確立したんだけど、その弟子の親鸞(しんらん)はさらに浄土真宗を開くんだ。
ただ、浄土宗からしてみたら「真」なんてつけられると自分らが偽物みたいに見えるから、歴史上では浄土真宗は一向宗と呼ばれることが多いね。。
ただ、浄土宗からしてみたら「真」なんてつけられると自分らが偽物みたいに見えるから、歴史上では浄土真宗は一向宗と呼ばれることが多いね。。
浄土宗と浄土真宗って何がちがうの?
はるか
Haru_You
浄土宗は阿弥陀仏を信じ、その名を念仏したものが極楽浄土に行ける、としたんだけど、浄土真宗は「南無阿弥陀仏」という言葉自体が信じる対象で、その言葉を信じてさえいれば極楽浄土に行けるとしたんだ。
だから浄土宗の僧侶は頭も坊主にして、肉を食べちゃダメとかいろいろ戒律ってのがあるんだけど、浄土真宗にはそういうのは何もないんだ。
ただひたすら信じればいい。
この「ひたすら」が仏教用語で「一向」なので一向宗だね。
だから浄土宗の僧侶は頭も坊主にして、肉を食べちゃダメとかいろいろ戒律ってのがあるんだけど、浄土真宗にはそういうのは何もないんだ。
ただひたすら信じればいい。
この「ひたすら」が仏教用語で「一向」なので一向宗だね。
昔の修業して極楽に行く、から比べたらずいぶんお手軽になったもんだね。
それなら民衆の間で人気もでるだろうね。
それなら民衆の間で人気もでるだろうね。
はるか
Haru_You
さらに浄土真宗、というか親鸞の教えには「悪人正機説」ってのがあって、「善人が極楽に行くのは当然で、阿弥陀仏は悪人だって極楽に連れて行く」としたんだ。
武士は人を殺すこともある、仏教的には悪人なわけだからそんな武士でも阿弥陀仏を信じれば極楽に行ける、という教えは大流行したんだよ。
武士は人を殺すこともある、仏教的には悪人なわけだからそんな武士でも阿弥陀仏を信じれば極楽に行ける、という教えは大流行したんだよ。
禅宗
Haru_You
だけど、浄土真宗の教えでは満足しない人もいるわけだ。
仏教には学問としての側面や修行して悟りを得たいという人もいたしね。
そんな人たちの人気を集めたのが宋から伝わった禅宗だ。
仏教には学問としての側面や修行して悟りを得たいという人もいたしね。
そんな人たちの人気を集めたのが宋から伝わった禅宗だ。
座禅して精神統一するやつだね。
はるか
Haru_You
座禅で悟りに近づこうというのが、道元の開いた曹洞(そうとう)宗で、下級武士や町人に人気があったんだ。
一方、栄西の開いた臨済宗という宗派のほうは幕府の保護を受け有力御家人の間で広まったんだ。
また、栄西は日本に茶を伝えたことでも知られるよ。
一方、栄西の開いた臨済宗という宗派のほうは幕府の保護を受け有力御家人の間で広まったんだ。
また、栄西は日本に茶を伝えたことでも知られるよ。
臨済宗はなんで幕府の保護を受けたの?
はるか
Haru_You
これまでの仏教は朝廷に近く、朝廷の影響力を受けるのを嫌がった幕府は新仏教を選ぶしかなかったんだよね。
臨済宗は曹洞宗ほど長時間の座禅をせず、公案という禅問答をするのも知識人に受けたんじゃないかな。
臨済宗は曹洞宗ほど長時間の座禅をせず、公案という禅問答をするのも知識人に受けたんじゃないかな。
日蓮と法華宗
Haru_You
ところが、浄土宗も禅宗も仏教の本尊である釈迦(シャカ)を第一としてないだろ、って文句をつけてくる宗派がいたんだ。
釈迦の教えである法華経(妙法蓮華経)を第一としろという主張をする、それが日蓮の開いた法華宗(日蓮宗)なんだ。
「南無妙法蓮華経」という題目は聞いたことがあるだろ?
釈迦の教えである法華経(妙法蓮華経)を第一としろという主張をする、それが日蓮の開いた法華宗(日蓮宗)なんだ。
「南無妙法蓮華経」という題目は聞いたことがあるだろ?
「なんみょーほーれんげーきょー」ってやつだね。
はるか
Haru_You
そう、それ。
日蓮は法華経のみが正しい仏典でそれ以外の邪法を信じると外国から侵略されて国が滅ぶという「立正安国論」を幕府に提出して、禅宗を信仰していた執権北条時頼に島流しにされたんだ。
日蓮は法華経のみが正しい仏典でそれ以外の邪法を信じると外国から侵略されて国が滅ぶという「立正安国論」を幕府に提出して、禅宗を信仰していた執権北条時頼に島流しにされたんだ。
まあ、みんなが信じてる宗教をディスったらダメだよねえ。
はるか
Haru_You
ところが、その直後に元寇、文永の役が起こるんだ。
で、日蓮は予言者として評価されるんだよね。
で、日蓮は予言者として評価されるんだよね。
鎌倉時代 演習問題プリント
演習プリントには、Excelファイル版とPDFファイル版があります。
Excelファイル版はリロード・再計算(F8)するたびに数字や配列が変わります。
マクロは使用していませんので、セキュリティ警告はありません。
なお、PDF版では20問の収録ですが、Excel版にはより多くの問題を収録しています。
Excelファイル版はリロード・再計算(F8)するたびに数字や配列が変わります。
マクロは使用していませんので、セキュリティ警告はありません。
なお、PDF版では20問の収録ですが、Excel版にはより多くの問題を収録しています。
はるか
鎌倉時代(PDF版)
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学習塾、家庭教師などの商用利用は作成者までご相談ください。
本配布ファイルを利用した事によるいかなる損害も作成者は一切の責任を負いません。
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はるか